日英語の呼びかけ語

ずいぶん古い話になりますが、ある高名な宗教学者の書いたコミュニケーションに関する本(『コミュニケーション入門』)の中で、日本人の「~さん」という呼びかけ表現について書かれた一節を読んで、日英語の呼びかけかたの違いに驚きました。

日本の大学で学び始めておそらく間借りすることになる(今ならホームステイというところ)その家の奥さんは、著者が到着した翌日の朝食時の会話で姓に「さん」付け(英語ではMr. + 姓 (family name)にあたります)で著者と話しました。著者はそのことに悩んで、一日中勉強に身が入らなかったと言います。

I wondered what I had done to make her so cold and formal.  (同書、p. 9)
どうしてあのように冷たく形式ばった言い方をされたのだろう。(何か悪いことでもしたかな。)

朝食時にはその奥さん(ホストマザーというところ)は、

ごく親しい友人や家族には個人の名前を使い、それ以外の人には姓を使う
In Japan, only intimate friends and family use personal names; everyone else is called by family names.  (同書、p. 10)

という日本の習慣に従っていただけです。(その日の夕食後にその家の長男に打ち明けて、「では家では個人名を使いましょう。でも日本ではこの呼び方に慣れないとね」ということになり解決します。)

例えばアメリカでは母親が腹を立てて、子供を叱る場合にはその腹の立ち具合によって違いがあり、一番きつく怒るときは

first name + middle name + family name

と全部言うようです(同書注記、p. 111)。

英語では、この(姓名の)名を使って会話をする習慣は上記の日本の「内輪」の範囲を超えて職場などにも適用されます。

小説『あん』の英訳書(Sweet Bean Paste)の中ではこの「姓(名字)呼びかけ法」から「名(個人名)呼びかけ法」(first name basis)への変換を図る個所があります(原文pp. 22-23、訳文 p. 15)。

主人公、辻井千太郎は、どら焼きの店を手伝ってくれることになる吉井徳江を原文では「吉井さん」と呼びます。(ただし後半では「徳江さん」も。)そして、「吉井さん」は「店長さん」と呼びます。ところが、狭い店内で常時ともに働く2人は英語ではどうしても個人名呼びが自然なのです。

「でも私、本当に働けるのね」
「それで……お兄さんのお名前は?」

というやり取りが

“But I really can work here, can’t I?”
“Yes, you can. What should I call you? Mrs... Miss...”
“Tokue is fine. And what’s your name, young man?”

と吉井さんは先にトクエと呼ぶことを認めたうえで、相手の名前を聞きます。

「辻井千太郎といいます」
「つじいせんたろう? いい名前ね。俳優さんみたいね」
「いや。そんなんじゃないです。自分なんて……」

“Sentaro Tsujii.”
“Sentaro Tsujii? What a lovely name. It sounds like an actor.”
“Hah, I don’t think so. It’s just me...”

そう言って、千太郎はメモ用紙に自分の名前を書いて見せます。

「そうしたらお兄さんのことは……辻井さん、それとも店長さん?」
“And what should I call you?”

「どっちでも」
“Sentaro will do.”
「それなら……店長さん。ここのあんは店長さんが炊いてるの?」
“In that case, Sentaro. Do you make the bean paste here?”
「え……まあ」
“Err... well...”

と続きます。数か所、吉井さんは店長さんを boss と呼ぶ場面もありますが、基本的には、Tokue、Sentaro で会話は進められます。

日本人としてはどうもこのような「見せかけの親密さ」(phony intimacy、『コミュニケーション入門』p. 11)には馴染めませんが、英語圏の人々の中にいるときはある程度慣れるべきかもしれません。

因みに上でちょっと触れましたが、吉井さんが店を離れてからは「徳江さん」と呼ぶようになります。この作品を見ると、日本語では

肩書 → 姓+さん → 名+さん → 名(のみ)

と親しさの度合いが増していくのが分かります。"-_-"


引用・参考文献:
Carl Becker, Communication: East and West(コミュニケーション入門), Annotated by Nobuo Naruke(成毛信雄注), Eihosha(英宝社), 1988.
ドリアン助川『あん』ポプラ文庫、2015年
Alison Watts (Transl.), Sweet Bean Paste, Oneworld, 2017.